「生きて伝える」−誰も知らない、学校のいじめ体験

そして俺は 終業式を迎え、”生きて”この地獄から生還した。 我ながら、「よく生きた」と思う。

俺は今、ここまで書き進めて何を思うのだろう?

「生きて伝える事」

俺はこの一言に集約されると思う。 今、社会の中で「いじめによる自殺」が問題になっている。 情けない事に いじめの訴えは、本人が自殺をする事で 初めて社会に影響を与えられるという、本末転倒の現状だ。

それに輪をかけて、 一遍の遺書だけを残して自殺した生徒が、 いじめの実態を語りたくても語れないのを良い事に、 学校は、利害が合わなければ平気でいじめの事実を隠蔽する。

一方のいじめの加害者といえば 「コイツになら何をやっても良い」という認識から、 害虫を潰しても罪悪感を感じる事が希薄なように、 いじめた者が自殺しても、 「邪魔者が居なくなって清々した」と微塵も自責の念を感じないまま、 面白おかしく生きて行ける人間も大勢いるのだ。

だからこそ、俺は 「生きて伝える事」に意味があると思っている。 俺がこの、いじめの事実を生きて伝えなければ、一体誰が伝えたというのか? あの教師達の行いや、いじめの事実は 俺が伝えなければ記憶の闇に葬られ、無かった事にされてしまうだろう。

「死んで訴えたいじめは、真には伝えられない」

これまでの流れが示すとおり、結局は闇の中だ。

もしもあなたが、
いじめで傷ついた経験を持っているなら、
多くの人に自分の経験を「生きて」伝えて欲しい。
あなたがこうして読んでくれたように
必ず誰かが、
あなたの「生きて伝えた文」を読んでくれるはずです。
それは

「自分は独りじゃない」

この事を、お互いが実感できる、きっかけになるかも知れません。

今この文章は、
誰かに読んでもらっている事を、思い浮かべながら書いています。 これ程の長い文章を、あなたがここまで読んでくれたという事は 僕にとって「生きた証」になっている。

この瞬間、あなたは自分の気が付かない所で 「必要とされている存在」になっていた訳です。

こんな事、思っても見なかった事だよね? 人から必要とされる瞬間って、いつ出会うか分からない事だよ。 諦めないで欲しいな。



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